2016年7月29日金曜日

7月27日 控訴審第4回公判 最終弁論

検察側最終弁論

原判決は、N供述の内容を主観的に誤り、事実誤認している。検察官は、客観的に間接事実を積み上げ、現金授受を立証してきた。

通常では考えられない実証実験という形で自治体に導入を図ったこと、さらに選挙前の2013年4月頃、メールの頻度が増え、要求の度合いが高まり、感謝の言葉を述べるなど、賄賂を渡す十分な動機はあった。

10万円の第1授受、20万円の第2授受とも、絶妙のタイミングで銀行口座から現金を引き出しており、賄賂以外の別の用途に使うことは経験則上考えられない。

現場の飲食店の同席人数、口座の出入金記録、ETCの記録の照会は、いずれもN供述が基になって、その後の捜査で裏付けたものであり、事実関係に大きな相違はなく、捜査経過に不自然な点はない。

贈賄供述は自発的になされており、供述後の捜査で客観的証拠により裏付けられ、当審での取調べによっても、供述の真実性がより一層明らかになった。

原判決が、第1授受より、先に第2授受を自白した経緯が不自然とする点について、当時は同時に詐欺事件も取り調べており、2014年3月15日に第2授受、3月19日に第1授受を自白した経緯からすると、短期間で様々な事実を供述したことで、記憶が相前後することはやむを得ない。初対面の場所について誤解していたのも、犯罪と直接関係ない事実について間違えることはやむを得ないことである。経験則、論理則に照らしてN供述は信用できる。

Nの供述は自発的になされており、供述後の捜査でも客観的証拠により裏付けられ、間接事実とも符合し、供述の真実性がより一層明らかになっている。

弁護人は、当審でのN証言は一審の判決書をそのまま引用しただけだと検察官の主張を攻撃しているが、不当な決めつけであり、いたずらに猜疑心をかき立て、誹謗中傷するものである。たしかに、当審の証言は詳細については記憶が減退しているが、骨格については一貫しており、このような証人が記憶の通り証言していることは経験則上明らかである。

以上、原判決を破棄して適正な判決が下されることを求める。


弁護側最終弁論

原判決は、現金授受の唯一の直接証拠であるN供述の信用性を否定した。供述の動機として、N自身の詐欺等の余罪の処分を軽くするため、捜査機関に迎合した可能性があることを指摘している。

しかるに、検察官は当審において、肝心の直接証拠たるN供述の取調べには終始消極的であり、新たに提出したのは第一審段階でも提出可能だった間接証拠ばかりであった。

当審においてNを再び取り調べることについて、検察官は反対意見を述べていたが、第一審で関口検事と連日連夜入念な打ち合わせをしていたことを踏まえ、検察官との証人テストを禁止し、名古屋高裁が事前に尋問事項を書いた用紙のみを差し入れ、職権でNを証人尋問することに決定した。

しかし、前回の公判においてNに一審判決書の差し入れがあったことが明らかになり、Nはほぼ判決書の通りの証言を行い、裁判所の要請を台無しにした。現に判決書にない事項は「記憶にない」と答え、逆に判決書に書かれている事項については、第一審の証言から1年半も経過しているにもかかわらず、判決書中の文言まで一致するほど、より詳細になっているなど、判決書を熟読していなければ考えられない証言を行った。

第一審で証言していたT同席の有無、初対面の場所について、当審では「記憶になかった」と判決書を読んで証言を変更した箇所がある。こうした供述経過について、検察側は供述の変遷の理由を説得的に示していない。

当審での証言について、Nは「全く何も覚えていないのは困る」と準備したことを認めたが、Nから頼んでいないのに判決書まで差し入れてもらっており、偽証罪に問われる不安が存したことが推測できる。一審判決後、関口検事がNのもとを2、3回訪れ、その際、Nは「控訴を希望しない」と関口検事に述べたというが、その前に関口検事の方から「控訴したいので、もう一度証人尋問に協力して欲しい」というような要請をしたと考えるのが合理的である。

もし、控訴審でもう一度証人尋問に呼ばれれば、単に一審と同じ証言をしただけでは偽証とされるおそれがあり、そのために、どの点が判決で否定されたか、自身の供述が否定された理由を知りたいと思い、何としても判決書を手に入れる必要があった。Nが原審よりも判決書の方に合わせた証言をしたのは当審での審理の通りである。

さらに、当審での検察官の信じがたい発言についても指摘する。検察官は「マスコミ用の判決要旨の差し入れがあったのでしょう」と述べた。そもそも、判決要旨は、正確な報道のため、特別な便宜供与として裁判所がマスコミに配布するものであり、他の目的での使用は禁止されている。検察官の発言したように、マスコミからNの弁護士に流出した事実があったとすれば、看過しがたい重大な事実である。

検察官は、虚偽供述の3類型を挙げて、N供述はそのどれにもあたらないから信用できると主張するが、およそあり得ないケースを否定してみせて、あたかも信用ありそうに見せる手法であり、不自然、不合理なことに変わりはない。かえって、弁護人側が供述が虚偽である可能性を具体的に指摘しているが、これに対して、検察官は具体的に反論するのでなく、「弁護人の主張は証拠に基づかない憶測に過ぎない」とか、「経験則上明らか」と漠然と主張するのみで、完全に論理的に破綻している。

そもそも刑事裁判の立証責任は検察官にあり、まして弁護人は様々あり得る可能性の立証の義務まで負うものではないから、「弁護人の主張は憶測に過ぎない」と検察官が攻撃するのは、あたかも弁護人に立証責任があるかのように錯覚させるものである。

本件は、すべて虚構の供述に基づいて作られた事件である。すでに逮捕から2年、控訴から1年以上経過し、被告人とされた市長本人の受けた苦痛、不安を感じた市民への配慮が必要である。検察官は、控訴審でのNの証人尋問に反対の理由を述べる際、証人の不安への配慮を挙げていたが、自らの権限行使による社会的影響も考慮せず、いたずらに訴追に拘る様は、公益の代表者としての責務への自覚が足りないと言わざるを得ない。一審無罪判決後も、なおも詭弁を弄し、無実の者を罪に陥れようとする検察官に戦慄を覚えざるを得ない。

裁判所におかれては、控訴を速やかに棄却し、市長の名誉回復、市民の不安払拭が一刻も早くなされることを切望する。