2016年5月10日火曜日

報道の問題点

美濃加茂市長冤罪事件の報道を振り返って、どのような問題があったか考えていきたいと思います。といっても、図書館で過去分を確認できた朝日新聞と中日新聞の報道が中心になります。

まず、自宅で購読していた朝日新聞の紙面を振り返ってみたいと思います。

朝日新聞
・逮捕から初公判まで
他紙と同じように愛知県警リークによる有罪視報道。

・第2回公判以降
被告人質問(10月24日)後にまとめ記事。同席者の否定証言などが影響したか、論調に変化。記者の心証が無罪説に傾いた印象。

・判決前後
判決前日に「あす判決」とまとめ記事(32面)。3月5日判決当日の朝刊にも、まとめ記事(岐阜県版27面)。愛知県版には掲載なし。

・3月6日判決翌日
1面トップ。社会面36,37面に詳報。岐阜県版33面に市長本人手記。ウェブ版にも。


中日新聞
・逮捕直後
6月25日朝刊1面トップ。連日にわたって報道。分量が一番多いが、有罪決めつけ報道。

・第2回公判以降
贈賄側知人証言を報道。他紙はスルーしていた。
被告人質問後にまとめ記事。相変わらず、有罪断定。ただし、公判経過に自信が揺らいだのか、近藤社会部長の署名で「あいまいな供述はよくない。可視化が重要。」とやや検察に責任転嫁?

・判決翌日
1面トップ。無罪判決が意外だったらしく、「寝耳に水」のコメント。まとめの表に検察の論告引き写し。証拠価値の低い贈賄側知人証言やメールを過大視。

中日新聞を購読していた岐阜市の知人に事件の感想を聞いたら、判決までは「たぶん有罪だろうなと思っていた。」と話していたので、わりと一般的な印象だと思います。中日新聞がなぜここまで有罪視報道になったかの原因を考察したいと思いますが、その前にこの話題に触れたいと思います。

ランキングの順位には興味ありませんが、自由度が下がった理由として挙げられていることは従前から言われていたことで指摘は当たっていると思います。日本の特徴として、記者に物理的暴力こそ振るわないけれども、記者ないし会社の方から、権力や大手企業に媚びに行ってることが大きいと思います。
新聞学科やメディア学部の専門の人からは、↑上記のような各紙の表現の精緻な比較研究も重要な意義を有すると思いますが、もともと自分は日本のメディアに対する期待値が低いので、いちいち朝日新聞は何点とかランク付けしません。24点は12点の2倍ですが、合格点の60点にははるかに及びません。

 以下、自分なりの切り口で問題を見ていきたいと思います。

権力分立の原理と「第四の権力」
メディアは、立法、行政、司法の三権に次いで「第四の権力」と呼ばれます。権力相互間の抑制・均衡によって、権力の暴走を防ぎ、人権を保障する立憲主義の思想と親和性がある考え方です。立憲主義は1789年のフランス人権宣言の16条に端的に示され、人権保障と権力分立の原理を基本としています。 権力分立は、三権分立より広い意味で、公安委員会や原子力規制委員会、警察と検察官など、行政部門の中でさらに抑制・均衡の原理を機能させるものも含みます。

このような原理を前提として、日本国憲法13条は「すべて国民は個人として尊重される。生命、 自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」と個人主義と幸福追求権を定めています。個人主義とは一方において、の犠牲において自己の利益を主張しようとする利己主義に反対し、他方において、「全体」のためと称して個人を犠牲にしようとする全体主義を否認し、すべての人間を自主的な人格として平等に尊重しようとする(宮澤俊義『全訂日本国憲法』日本評論社)ものです。幸福の権利や幸福実現権ではなく、幸福追求権となっているのは、幸福の概念は各人によって異なり、個人の自由な意思決定を公権力が妨害しないという消極的自由の性格を有するからです。国家目標として「幸福」の形を定めて個人に強制することは全体主義的統制として否定されます。

「公共の福祉」は人権相互の衝突による内在的制約とか、他者を害しない範囲の自由と解されます。「立法その他」は、立法、行政、司法の三権です。できるだけ国民の利益の侵害が少ない手段を採用する比例原則、刑罰の謙抑主義が導かれます(平川宗信『刑事法の基礎』有斐閣160-168頁に謙抑主義を詳述)。場合によっては、検察官は「公益の代表者」(検察庁法4条)として無罪の論告を行うこともあります。

権力の癒着と村八分社会
もっとも、上記の原理も、権力が暴走の危機にある時に現れてくるものです。常に対立しているわけではありません。権力機関が国民の権利を保障するという目的を忘れれば、容易に弱者の抑圧機構となります。権利を侵害されたまま、どこからも救済されなければ、文字通り、踏んだり蹴ったりになります。権利回復をあきらめて、泣き寝入りする人も少なくありません。

スズメバチ被害より多いと思われる冤罪と報道被害
自分の直接の知り合いでも2人冤罪に巻き込まれた人がいます。1人は誤認逮捕で取調中、真犯人が捕まって即日釈放されましたが、翌日、本人が自宅に配達された新聞紙面で自分の名前を発見しました。明らかな誤りですが、本人から訂正されたとは聞いていません。事件的にもベタ記事程度の内容でしたが、それだからこそ、実名報道で速報する意義があったか疑問です。冤罪と実名報道の被害者はスズメバチに刺される人より多いのではないかと思います。

発表ジャーナリズムの利点と欠点
再審決定が出ると、たちまち不当捜査を指摘する報道が増えます。将来の教訓となる有意義な報道ですが、事後的な報道では、再審請求していた本人のためにはあまりなっていません。経済分野でいえば、景気が右肩上がりで安定していれば、一部の官庁や団体の情報を少しフライングで発表することで、大きな利益が得られます。ところが、社会が複雑化してくると、一部の情報だけでは、真相の把握が困難になります。そこで、取材先の多様化や情報の検証能力の向上で真実に近づく努力を図るべきですが、自信のなさから特定の専門家や権威への依存を深めてしまうと、ますます歪みが拡大していきます。

メディアは本当に「第四の権力」なのか ニューズウィーク日本版


役に立たない「客観報道」
たとえば、GDPなどの経済指標がマイナス1%だったとします。同時に、日銀総裁が「景気は下げ止まりつつある。」とコメントしたとします。そこで「GDPマイナス1% 景気下げ止まり傾向、日銀総裁」と見出しをつけたら、客観的な数字を書いているし、当事者のコメントをそのまま載せているだけで、何も偏向はありません。しかし、実態は単に日銀総裁の事実と願望を混同したプロパガンダを拡散しているだけです。公的な権威だからといって、根拠の薄い希望的観測をまともな意見として扱うことは有害ですらあります。読者が知りたいのは、GDPマイナス1%の意味と経済の動向であって、専門家のちゃんとした分析を、たとえ数日遅れでも載せるならば、読者にとってははるかに有意義でしょう。

以上、自分の意見を長々と書いてきましたが、あらためて中日新聞の報道の問題点を振り返りたいと思います。

・事実を見抜けない「総論賛成 各論反対」
中日新聞は、逮捕前日、1面に大阪地検証拠改竄事件に関して江川紹子インタビューを載せていました。全面可視化の話など極めて有意義なインタビューで読んで欲しいのですが、この後、週刊プレイボーイで江川紹子が記事を連発した展開を知っていると皮肉としか思えません。

・捜査側に操作されていた新聞記者
逮捕直後の記事をよく見ると、逮捕前に中日新聞記者が地元での聞き込みをしていたことが分かります。いちいち愛知県警に報告していたかは分かりませんが、記者の主観的意図はどうあれ、言葉は悪いですがやっていたことは客観的には「岡っ引き」にしか見えません。

・「スクープ」の思い込みが目を曇らせた
記事の情報量だけなら、中日新聞が一番分量も回数も多かったと思いますが、どう見ても犯罪と無関係なツイートの情報などもいっぱい載っていました。最初から「30万円」という金額の情報は載っていたので、慎重な判断も可能だったと思いますが、何かしら難癖をつけようと、とにかく地元の悪い評判を探すのに苦心していた跡がうかがえます。美濃加茂市の選挙を取材した記者もいたと思いますが、1,2年しか経っていないのに、現場の記者が抱く人物像と整合させるのは大変だったのではないでしょうか。もっとも、弁護するなら、初動で30万円なら、次は300万円くらいあるかもと推測するのは理解できます。しかし、あれだけ取材して出てこなかったなら、「なかった」と結論を変更するのが誠実な姿勢だと思います。

・確証バイアスと集団無責任
おそらく記者と付き合いの長い愛知県警の課長とかの「絶対有罪で間違いない。」という言葉を信じて取材を開始したのだと思いますが、反対の情報を見つけても無視して、有罪説以外の可能性に蓋をしてしまったのでしょう。取材陣を大量投入した上司にしても、命令した手前、引き返す勇気を持てなかったのだと思います。公判が進むにつれ、自信が揺らいだこともあったでしょうが、捜査官が「絶対間違いない。」と強調するので盲信してしまったのでしょう。実際には、根拠が薄いからこそやたら断言することがあります。孔子『論語』「巧言令色、鮮し仁。」とか『老子』「知る者は言わず、言う者は知らず。」とか、昔からぺらぺらしゃべるのは信用ならないという教訓です。

・取材費の無駄遣い
逮捕翌日の紙面にわざわざ自社ヘリから空撮した浄水器の写真が載っています。何の意義があるのでしょう。

・刑事手続をちゃんと理解している記者がいるか不安
贈賄側知人証言について、10月2日第3回公判の最後で鵜飼裁判長が「間接証拠としては扱いません。」と明言しているのに、判決後の記事でさも客観的な証拠として挙げていました。他紙はわりと常識的感覚でスルーしていたと思いますが、中日新聞社は名古屋地裁のすぐ近くで、常に10人から20人くらいの人員を投入していたのに、取材陣の中に一定レベルの刑事訴訟法に理解がある人物がいないというのは、今後も捜査側の言いなりになる危険性があります。


あとは、自分が一読者として新聞に求めることです。

・速報性はあまり求めてない
別に1日か数時間遅れても、気にしません。お金を払って良かったと思える読み応えのある記事が読みたいです。

・社説は読まない
ほとんど事実と根拠が示されてないので読みません。適当に良いことを言うなら誰でもできます。高校生以上には天声人語の書き写しより、硬い本を1か月で1冊読むように指導しています。

・ベタ記事は捨てる
ベタ記事を載せなかったことで、読者が困ることはありません。無意味な実名報道で傷口を広げたり、地域社会に亀裂を発生させるくらいなら、載せない方がマシです。他に集中して下さい。

・経営と編集の分離。利益相反防止。権力分立的要素を。
メディア不信の最たるものです。特に全国紙の政治部や広告局の横槍で自粛することがあると、本当につまらなくなったと感じます。

・手抜きの記事はすぐ分かる
コピペはすぐバレます。面倒なのでプレスリリースをそのまま載っけた方がマシです。中途半端にきれいに編集してしまうと、官庁や団体が都合良く責任逃れができてしまいます。スクープと捜査上の秘密を使い分けさせてはいけません。

・「ネットで話題」は無思想の表明
つい5年くらい前までは、「ネットは不確かな情報だらけ」と言っていたと思うのですが、この2年くらいで急にテレビメディアがYouTubeやツイッターのネタを露骨にパクるようになってきて、いよいよそこまで落ちたかと思いました。問題意識がないなら報道を名乗るのをやめるべきです。語尾を「いかがなものか。」で締めるのも同様で、現代文の答案なら0点にします。

・ポスト可視化、可視化実現のために「法と心理学」の知見活用を
イギリスではすでに30年前からすべての刑事事件の取り調べについて全部録音録画が義務づけられ、そのための尋問技術や虚偽自白を避ける知見が積み重ねられています(指宿信「取調べ—取り調べの科学化・可視化」藤田政博編著『法と心理学』法律文化社50-61頁)。可視化が実施されればこれまでとは異なる能力が必要となります。また確立された尋問技術は日常の場面でも応用可能なものです。また調書裁判の日本で特異な発展を遂げた供述分析の手法もいまだ有効です(浜田寿美男「供述分析—「渦中の視点」から描かれるもうひとつの心理学」同前92-106頁)。この分野では韓国、台湾に遅れています。

・事実に切り込まないのはコピペサイトと同レベル
朝日新聞を叩いて新聞離れに貢献した読売新聞(blogos)(マーティン・ファクラー『安倍政権にひれ伏す日本のメディア』双葉社70頁も同旨。)
朝日新聞は吉田調書報道を自主的に訂正したわけですが、同時期にネガティブキャンペーンをしかけた読売新聞が部数を大きく減らしています。この騒動が部数に反映されているとするなら、多くの読者は、消極的に報道しないことより、たとえ誤報があっても積極的に報道する姿勢の方を評価したことになります。特に原発問題では読売新聞に報道しない姿勢が顕著でした。

・アリバイの両論併記は不要
たとえば、銃乱射事件が起きた時に、銃規制の方法で議論になるならともかく、両論併記ということで「いつでも自衛できるようコンビニでも銃を買えるようにすべきだ。」と銃規制反対派の意見を平等に取り上げるのはおかしいと平均的な日本人なら感じるでしょう。それと同じくらい論外な主張については両論併記する必要はありません。そんなところまで公平中立な客観報道の形式を墨守する必要はありません。不掲載にした団体が抗議してきたら、「論外な主張に耳を貸すつもりはありません。どうぞ自己責任で自分のHPで主張して下さい。」と反論すれば良いだけです。(この点は、マーティン・ファクラー『「本当のこと」を伝えない日本の新聞』双葉新書116頁、上杉隆『ジャーナリズム崩壊』幻冬舎新書36頁も同旨。)

・社会問題を掘り起こす調査報道・検証報道を
高校以下の教育は決められた範囲で100点を目指す「失敗しない能力」が求められますが、逆に、大学の研究はいわば「失敗をする能力」であり、失敗を恐れずに新たな問題を発見する知が求められます。特に人文社会系は人間自体が対象であり、社会の所与の価値に対して批判的な目を向けて、新たな価値を創造するものであって、100点満点はあり得ません(吉見俊哉『「文系学部廃止」の衝撃』集英社新書68頁)。大学に学問の自由が広く認められるのも、学生が単に教授の言いなりでなく、学説を批判的に検証する能力があるとみなしているからです。このブログも、ある程度、批判能力のある人向けに書いています。せっかく大学を出て、世界的に見れば大きな企業に就職したのなら、その能力を有効活用すべきです。

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